詰め込み教育と体罰は資本主義に耐える身体をつくるトレーニングだ
どこに行っても「ゆとり」という言葉を耳に挟むのでまた考えてみた。
先日カフェで本を読んでるとカップルか横に座った。
「私たちゆとり世代やからなあ」と自分たちの仕事に対しての猛烈な熱意の薄さを心配しているようだ。
いつもゆとりとは何かばかり考えてた謂わゆるゆとり全盛期世代の自分にとっては、詰め込み教育とは何のために行われたのかが疑問だった。
どこかで、本読んでしっかり考察を書きたい。今回は雑感だ。
もう言いたいことはタイトルの通りだ。
日本において資本主義が明治時代に国家的な広さで産声をあげた。
戦争まで突き進み、領土拡大や資源獲得を目指した侵略行為は国家的な資本主義の行きつくところだ。
そして戦後の荒廃を立て直すのに財布をより小さく。違った。。。政府をより小さくして民間の力で資本主義をさらに推し進めた。
結果、ここにおいて求められるようになったのは国家のために動く軍人に近しい意味での企業戦士だった。
国家が企業に変わったのだ。
具体的に求められることはあまり変わらない。
上司の命令に従う精神。
どんなにしんどくとも壊れない強靭な身体。
しんどくとも崩壊しない精神。
こんなところではないだろうか。
考えるな。言われた通りに動け。
という色が強く出ている。
要するに強烈な進歩を続ける資本主義に耐えられる人間を作り出して行ったのだ。
だからこそ膨大な残業に耐えれた。
私たちゆとり世代はどうか。
詰め込みはされながらも、できるだけ自分で考えて結論を出せという色が強く出た教育制度の中で育った。
なので部活をしているからといって、高度経済成長の戦士とはつくりが違う。
そこに無理やり高度経済成長並みのものを求めると壊れる。
普通に考えれば当たり前だ。
しかし高度経済成長世代の人たちはすぐに「これだからゆとりは」と言う。
飲み屋で横でそうやって愚痴りあっているおじさん連中がいたらいつも言いたくなる。
「いやいやいや。私たちの世代の受けた教育制度を前提とせずに頭ごなしに理不尽がるのは筋が通らない。誰も教育を自分で選んで受けたわけではないでしょう。
同じ意味のことをあなたたち団塊の世代に言います。何でネット使いこなせないの?何でTOEIC低いの?何で新しい考え方を受け入れられないの?」
こんな感じ。
明らかに自分がひねくれてる。ここは認める。
しかし、各個人の前提と結果を無視して、ちがうことを言い続けるほど滑稽なことはないだろう。
もう1つ。言い続けているということは、伝えた相手や世代を変えられていないということだ。
変わらないから批判したり愚痴の対象にしたりするのは、いささか卑怯ではないのか。
どうやったら伝わるのか変わってくれるのかの努力なしに口先だけでの文句など、自身の努力不足を世間に向けて叫んでいるだけになってしまっている。
◯追伸
高度経済成長に企業戦士と育てられることから脱落した人間も多くいる。
最終的に企業で活躍できるであろう訓練に耐えた人間だけが社会の基準となる。
あまりにも理不尽ではないか。