跳躍すれども、土台はガラス造り

 

志を持っている人はたくさんいる。

 

後は、志のを胸にジャンプをすればいいだけだ。

 

だけど、自分たちがいる社会はまるでガラスのよう。

 

強く硬く重い志を持って跳躍すると、ガラスの土台は割れてしまう。

 

だから、みんなジャンプしなくなる。

だから、志を外して軽くする。

 

多くの人が生きて行くために、志をどこか違うとこで保存し、もしくは跳ねないようにしているのだ。

 

奨学金、学費、アルバイト、家庭環境で若者は思うように飛び上がれない。

非正規、家族、人間関係、ローンで自立し働いている人も飛び上がれない。

 

北方謙三の『三国志』で諸葛亮孔明臥竜として描かれる。

 

龍が身を潜める姿勢は、空高く跳躍するための準備なのだ。

 

今の社会は時が来たら、といっても時が来ない。

そして、舞い上がるための地面が脆すぎる。

 

「お金がかかるから」と夢を諦めて来た少年少女、大人たちが大勢いるはずだ。

 

自分が耐えることになれてしまった人は、空高く飛び上がろうとしてる人に冷たい視線を向ける。

夢を見る側から、壊す側に変わるのだ。

 

可能性も選択の自由もへったくれもない。

 

自由に準備をでき、龍が雲を得れる環境整備をしなくては。

「はじめの一歩が肝心だ」なんていうけど、その一歩が踏み出せない空間に私たちはいる。

 

それが次世代に対してだけでなく、諦めて来た過去の自分への責任の取り方だ。